<じゃあ…渡してみようかな>

律子がデビューしてから数週間

その毎日をレッスンや営業に費やしながらも事務の仕事を手伝えない程忙しいとは言えない。

簡潔に言ってしまえば暇な時間を律子は事務所で過ごしていた。

律子「ま、デビューしてランクが少し上がったってだけですぐには変わらないわよね」
そう呟きながら相変わらず伝票と出納帳との睨めっこを続けているとプロデューサーが営業から帰って来た。

律子P「只今戻りましたっと、律子!」
不意に名前を呼ばれて律子は体を震わせた。

律子「な、なんですか?急に…」

律子P「いきなりなんだけどCMの仕事が取れたよ」
その言葉に律子はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

律子「CMですか!?ホントにいきなりですね…」
律子の言葉にプロデューサーは一部の雑誌を律子に手渡した。

律子P「この前の取材が功を奏したみたいだね」
インデックスの貼られた部分を開いてみるとそこには一面を飾る律子のページがあった。

記者の取材に答えている律子の写真と会話の内容が綴られている。

全てを読み終えてみると好評を得られる様な記事である事が書き手の文面から伝わって来ていた。

律子「なるほどぉ。それで、CMって何のCMなんですか?」

律子P「チョコレート」

律子「チョコ?」

律子P「そう、チョコレート。もうすぐ2月だしチョコレートメーカーが一番忙しい時期なんじゃないかな?」

律子「バレンタイン、か…」

律子P「律子はバレンタインに誰かにチョコあげたりしたのかい?」

律子「いいえ」
誰がそんな事をと言わんばかりに当たり前の様に答える律子を見てプロデューサーは苦笑した。

律子P「そっか。時間がある時にでも見てみるといいよ。M社さんのCMが今回のオファーだからね」
そう言うとプロデューサーはコートを律子の隣の席の自分の椅子に掛けて座った。

それと同時に嗅ぎ慣れた香りが風に乗って律子の前を通り過ぎる。

律子は反射的にドキッとしてしまう胸を押さえた。

律子P「何してたんだい?」
隣に座ったプロデューサーが律子のデスクを体を乗り出す。

律子のデスクには先程の雑誌の他にはいつもの出納帳とペンしか置かれていなかった。

律子「いつもの様に、経理の仕事を…」

律子P「律子は簿記の資格とか持ってるの?」

律子「いいえ、取りたいなぁとは思ってますけど」

律子P「ふーん、それだけ仕訳とか見慣れてれば呑み込みも早そうだね。ちょっと勉強してみるかい?」
どうする?と言った風に眉を上げるプロデューサーに対して律子は驚いた。

律子「教えてくれるんですか?」

律子P「初歩的な事位なら、ね」

律子「でも忙しいんじゃ…?」
プロデューサーも帰って来たとは言え何も仕事が無いはずは無い。

自分が暇でもプロデューサーはそうでない事は律子にも分かりきっている事だった。

律子P「構わないよ。仕事はすぐに片付けられるしね」
そう言いながら律子の横に椅子ごと移動する。

律子「じゃあ、お言葉に甘えて」

律子P「おし!じゃあいいかい?まず決算書って言うのは…」
それからしばらくプロデューサーの説明を聞いていた律子がふと我に返ったのは十数分後の事だった。

律子「っ!?」
今まで熱心に話しを聞いていた所為かそこまで気が回らなかったがすぐ隣にプロデューサーの顔がある。

律子「(うゎぁ、顔ちか…)」
目の前にプロデューサーの顔がある。

少し傾ければ頬がくっついてしまう様な距離だった。

心なしかいつもよりプロデューサーの香りが濃い様にも思える。

瞬間的に鼓動が高鳴り、耳の後ろが熱くなって行くのが自分でも感じられた。

不意に意識してしまった所為か呼吸をするのすらもおぼつかない。

息を吐いたらプロデューサーの顔に掛かってしまう様な気がして急に恥ずかしくなってしまった。

なんでこんなに緊張してしまうのかは自分でも分からなかった。

律子P「…って事になるんだ」

律子「あ…ぅ…」

律子P「今日はここまでにしとこうか。…律子?」
返事が返ってこない律子の顔プロデューサーが覗き込む。

律子「ふ、えっ?あ、はい!」
視界に飛び込んできたプロデューサーの顔に驚いた律子の口から出たのはいつもよりトーンの高い返事だった。

律子P「とりあえず簡単なおさらい。資産の求め方は?」

律子「えっと、負債+資本」

律子P「つまり資産が維持できていて、負債が減ってる会社は?」

律子「自己資本が増えている会社」

律子P「律子がやってたその出納は損益計算書の何に当たるかな?」

律子「んと販売費及び一般管理費、略して販管費」
律子が言い終えるとプロデューサーは小さく微笑んだ。

律子P「覚えがいいね。初めて聞く単語ばかりだったのに」
プロデューサーの言葉に後半殆ど聞き取れていなかった自分が申し訳なく思えた。

律子「いえ、ありがとうございました」

律子P「どういたしまして。また時間があったら勉強しようね」

律子「はいっ」

律子P「それじゃあ仕事に戻るけど、律子はオフだよね?ゆっくりしてきな」

律子「ん〜これといって特にやる事が…もう少し事務所に居ても良いですか?」
律子の言葉に不思議そうな顔をしたプロデューサーだったがすぐにいつもの笑顔を取り戻した。

律子P「ま、休み方は人それぞれだしね。律子が良ければそれでいいよ」
そういい残すとプロデューサーは自分の席に戻って何やら作業を始めだした。

邪魔にならない様、そっと小説をデスクから取り出していつもの窓際の席に移動する。

紐の栞の部分を開いて恋愛小説の続きを読み始める。

読み進めるとキスシーンの描写が挿絵付きで表現されていた。

律子「(これって…)」
女性の立場から終始書き綴られたその小説は心境や表情が事細かに記されていた。

そして同じ様な心境を先程、律子も体験したばかりだった。

再び赤面しながら本を読み進める。

律子「(なんか、複雑な心境ね…)」
そう思いながらチラリと視線をプロデューサーに移すと相変わらず何かを熱心に書き込んでいた。

視界にプロデューサーを見つけるとさっきまで騒がしかった気持ちが自然と落ち着いた気分になる。

不思議で堪らなかった。

同じ人を見ているのに心が騒いだり、落ち着いたりと慌しくなるのは一体どう言う心境の変化だろうか。

律子には大よそ理解が出来なかった。

律子「(恋って…まさかね)」
そう思って自嘲的に溜息混じりに小さく笑うと窓越しに空を見上げる。

律子「(いい天気ねぇ…みんなどうしてるかしら)」
ふと他のアイドル仲間達の事が気になった。

自分も今や正式にアイドルとしてデビューはしたもののいつもの生活と大きく変わり映えはしていない。

それこそ先程のプロデューサーが漕ぎ着けたCMの話しが初めてアイドルらしい仕事と言えた。

物思いに耽っていると慌しく真と春香が事務所に入って来た。

真「おはよーございまーす」
春香「おはようございまーす」
いつもの様に元気良く挨拶しながら入ってくる。

律子「おはよう、二人とも。珍しいわねぇ」
律子も挨拶をしながら出迎える。

律子が応対するのを見てプロデューサーは再びデスクに視線を戻した。

真「さっきそこで会ったんだ」

春香「私もびっくりしちゃって。最近あまり会えなかったからね」
そう言うと春香は嬉しそうに笑った。

律子「そうね、今まで偶然でもすれ違う程度だったのに」

春香「そうですねぇ、二人ともオフですか?この後」
伺いを立てる春香にまず真が答えた。

真「ボクは何も無いよ、レッスン終わったし」
続いて律子が答える。

律子「私も特に無いけど?」
何をするの?と不思議そうに答える律子に対して春香はいつもの笑顔でビニール袋を持ち上げた。

春香「じゃあ久しぶりにお喋りしませんか?お菓子買って来たんです!っと」
春香がプロデューサーに気付いて視線を移す。

春香「…あの方誰ですか?」
春香の問いかけに律子は答えた。

律子「私のプロデューサーよ」
律子が答えると二人は感心した様に頷いた。

律子「どうしたの?」

春香「ご挨拶しなきゃっ」
そう言うと春香は真を連れてプロデューサーの隣に駆けて行った。

それに気付いたプロデューサーが二人を見上げると雰囲気を読み取ったのか腰を上げた。

春香「あの、律子さんのプロデューサーさんですよね?私、天海春香です。よろしくお願いします」

真「ボクは菊地真です。よろしくお願いします」
二人の挨拶に少し戸惑いながらもプロデューサーは笑顔でそれに答えた。

律子P「こちらこそ、よろしくね。律子共々」

春香「あのお菓子買って来たんですけどプロデューサーさんも一緒にどうですか?」
春香の申し出にプロデューサーは申し訳無さそうに答えた。

律子P「あっと、ごめん。まだ仕事が残ってるから、気持ちだけで…。それに」

真「それに?」

律子P「折角の再会に水を差しちゃ悪いからね」

春香「そうですかぁ。じゃあ少し残して置くのでもし良かったら後で食べてくださいね」

律子P「うん、有難う」
プロデューサーが言い終えると二人は一礼して戻ってきた。

律子「ミーティングルーム空いてるわよ」

春香「行こ行こ!」
ミーティングルームに入ると春香は重たそうなビニール袋をテーブルに置いてジュースを取り出した。

紙コップに注いで全員に渡すと音頭を取る。

春香「じゃあ久しぶりの再会にかんぱ〜い」
真「かんぱ〜い」
律子「かんぱ〜い」

皆が一口飲み終わった所で春香が落ち着かない様子で話しを切り出した。

春香「律子さんっ!律子さんのプロデューサーさん、カッコよくないですかっ!?」
少し興奮気味に春香は話し出した。

真「それボクも思った!」
真もそれに同意する。

律子「そうかしら…」
そう答える律子も第一印象として少なからず同じ様に思っていた。

春香「なんか仕事出来そうな感じするじゃないですかっ。いい匂いするし、お洒落さんだし」
こう言う所を目の当たりにすると春香もアイドルではあるが女子高生なんだなとつくづく思ってしまう。

と同時になんて年寄りみたいな考え方をするのかと律子は自分を責めた。

律子「何処がどうお洒落なのよ?」

春香「香水も雰囲気にあってる気がしますし、あとメガネとか」
春香の言葉に律子は眉を寄せた。

律子「めがねぇ?」

真「確かにあまり見ないデザインの縁してたけど何でそんなの分かるの?」
真の言葉に春香は瞳を輝かせて答えた。

春香「ブランド品だよっ」
春香は嬉々としてそう答えた。

律子「そうなの?」

春香「ヴィヴィアンですよ、ヴィヴィアン。憧れるなぁ…」
そう言って遠い眼をする春香を律子は現実に引き戻した。

律子「うちのプロデューサーの事はいいとして。春香、聞いたわよ」
眼鏡の奥から悪戯っぽい眼で春香を見詰める。

春香「な、何をですか?」
怯えた表情を見せる春香を他所に律子は真に耳打ちをした。

真「えぇぇぇっ!?本当なの?春香」
驚いて聞き返す真に春香の狼狽はさらに激しくなった。

春香「え、え?え!?」
その表情を見て満足したのか律子は春香を手招きする。

3人が顔を近づけると律子は小声で話しだした。

律子「春香、プロデューサーとイイ感じらしいじゃない」
クスクスと笑う律子に対して春香は驚きを隠せなかった。

春香「んなっ!何故それを!?てか何処から…。っ!?」
やってしまった…。

春香は直感的にそう思った。

視線の先の律子の表情がそれを物語っていた。

律子「認めたわね」
ニヤニヤと意地悪く笑う。

シラを切る事も出来たはずなのに浮かれていて考えが及ばなかった春香は時間が戻らないかと本気で思った。

春香「はい…すいません。お付き合いさせて貰ってます…」
シュンと俯きながら答える春香に真も律子も応援の言葉を掛けた。

真「本当なんだぁ、良かったね。春香!」

律子「良い事じゃない、パートナーが出来るって事は」

春香「うん、ありがと」
そう言うと春香は照れ混じりに「へへっ」と微笑んだ。

春香「でもでも、私はその…運が良かっただけで皆もすぐ見つかるよ!」

真「ボクはどうかな…こんなだしな」

律子「私もそう言うのは解らないかな?」

春香「どうして?律子さんあんなにかっこいいプロデューサーさんが居てなんとも思わないんですか?」
春香の問いに律子はうーんと唸った。

律子「そりゃあ、少しはかっこいいなとか…思ったりもするわよ」
照れながら律子も答える。

真「ねぇ、春香。その、付き合うとか好きになるって言うのはどういう感じなの?」
真は真らしい素直な質問を春香に投げかける。

春香「えっと…上手く言えないけど、人それぞれだと思うけど…」
二人の視線が春香に向けられる。

春香「見てるだけでドキドキしたり、一緒にいると落ち着いたり…手を繋いだだけですごい恥ずかしかったり」
春香の言葉を律子は自分に当てはめていた。

直接触れる事以外はどれも今の自分に当てはまるのだと思うと少し恥ずかしくなった。

春香「無意識の内に視線で追いかけたり…って言ってるのが恥ずかしいんですけど…」
春香が視線を上げると他の二人も仄かに顔を赤らめていた。

真「そ、そっかぁ。好きって言うのも色々あるんだね」
律子も同じ事を考えていた。

ただ気付けたのは少なからず自分はプロデューサーに対して好意を抱いていると言う事だった。

無意識の内に意識してしまっている自分が居る。

そんな、言葉で現すと大よそ説明の付かない言葉が好きと言う感情なんだなと改めて実感した。

春香「話題変えましょう!ほら、もうすぐバレンタインですよねっ!」

真「春香、それ話題変わってるの…?」
真でさえも即座に突っ込める様な春香のボケに対して律子はクスッと微笑んだ。

律子「春香はチョコあげるの?愛しのプロデューサー殿に」
突っ込まれて意気消沈気味な春香が答える。

春香「はい…私の取り得はお菓子作り位なものでして…律子さんは?」
上目遣いに聞き返す春香に律子は少し考えた様子で答えた。

律子「うーん、さっきM社のチョコレートのCMのオファーを貰ったのよ」
律子の言葉に春香がガタッと椅子を鳴らした。

春香「M社のチョコ美味しいですよね!」
パッと春香の表情が明るくなる。

律子「食べたこと無いから解らないんだけど…」
そして律子に一蹴される。

真「すごい!CMのオファーが来たんだね。じゃあモロにバレンタインのCMなんだぁ。これは作らなきゃだめっしょ!」
真が嬉しそうに言う。

律子「とは言っても作った事も無いし…でも春香とは違う意味でチョコをあげるのも悪くないかしら。感謝の気持ちとして」
うーんと更に考え込む。

律子の真意は感謝の気持ちか好意の証かで揺れていた。

らしくない…。

そう思ってしまう自分も確かに居る。

春香「義理チョコって手もあるじゃないですか。手作りするしないは別としても」

律子「そっかぁ、うん。それも…そうね。じゃあ…渡してみようかな」

春香「アハッ、上手く行くといいですね♪」

律子「何がよ?」

春香「プロデューサーさんとですよ」

律子「なっ、そんな気は無いって言ってるのに!」
赤面して言い返す律子をお返しと言わんばかりに悪戯っぽい目つきで春香は見つめた。

春香「フフーン」

律子「ったく。真は?誰かにあげるの?」

真「ボクは社長に。作るかどうかは決めてないけどね」
真は嬉しそうに答えた。

律子「みんな渡すのかしらねぇ」




しばらく談笑していると外は少し暗くなっていた。

律子「話し込んじゃったわねぇ」

真「もう結構暗いね」

春香「寒そうだなぁ」
ミーティングルームから出ると事務所にはプロデューサーの姿が見えなかった。

律子「あれ、プロデューサーが居ない」

真「ほんとだ、帰っちゃったのかな?」

律子「うーん、帰ったとは考えにくいけど。先に帰ってて、私はプロデューサーに挨拶してから帰るから」

真「うん、わかったー。じゃあね」

春香「またお話しましょうね、律子さん」
軽く手を振って二人を見送ると律子はプロデューサーを探し始めた。

デスクには手帳や伝票が置いてあってこのままにして帰ったとは思えない様子だった。

律子「おかしいわねぇ」
しばらく探していると不意に事務所のドアが開けられた。

律子P「あれ?二人は?」
手にコーヒーカップを持ってプロデューサーは辺りを見回した。

律子「帰りましたよ。遅くなったので私も帰ろうかと」

律子P「そうだね。あまり遅くなるといけないから律子も帰って休みな」
いつもの笑顔でプロデューサーは言った。

その表情を見て律子は少し安心した。

律子「それじゃ、お先に失礼します」

律子P「お疲れ様。CMの話しは今度詰めようね」
その言葉に律子も笑顔で返した。

帰り道

ひんやりとした夜風が吹く度に律子はマフラーと羽織っているコートの位置を直していた。

外は昼間の日差しからは想像も付かないほど冷え切っていてコートの上からでも律子の体温を奪っていった。

それでも律子の胸の奥では暖かな風が律子の気持ちを包み込んでいた。

 SS寄り