<私がですか!?>
事務所の一角
デスクに向かって律子は伝票と格闘していた。
必要経費・管理費・維持費・家賃・機材費用etc…。
それら全てに目を通し出納帳に纏めていく。
律子「もぉ、これ先月の15日の奴じゃない…」
時折混ざっている事務殺しの伝票にブツブツ文句を言いながらも作業は的確且つ迅速に進んでいた。
カリカリとペンを走らせ、伝票と出納帳に視線を行き交わしては忙しなく計算機を叩く。
しばらくして経費伝票最後の一枚を手に取る。
律子「なんじゃこりゃ…」
但し書きの欄を見ると「おやつ代として」と記入されていた。
律子「亜美真美か…」
小さく溜息を吐いて最後の伝票を書き込む。
計算機で最終確認をして、パタンと出納帳を畳む。
律子「あー終わった終わったー」
小鳥「お疲れ様」
そう言うと小鳥はお茶の入った小さな湯のみを律子のデスクに置いた。
律子「あ、小鳥さん。有難うございます」
少し熱めに淹れられたお茶を静かに啜る。
小鳥「いいのよ、いつも手伝わせて悪いわね」
申し訳無さそうに言う小鳥に向かって律子は首を横に振った。
律子「いいえ、これも仕事の一環だと思ってますから」
そう言いながら律子は湯のみを置いてトントンと右手で自分の肩を叩く。
律子「今から事務や経理に慣れておけばアイドルがダメでもくいっぱぐれたりしないでしょうし」
肩を叩きながら律子は笑った。
小鳥「それはそうかもしれないでしょうけど…」
うーんと悩む小鳥に対して律子は笑顔で言った。
律子「安心してください。まだアイドル諦めるには早すぎるので。事務仕事も性に合ってるってだけですから」
それを聞いて小鳥は微笑んだ。
小鳥「それを聞いて安心した♪デビューしたらちゃんとアイドル業に打ち込んでね?」
律子「分かってますって」
小鳥「あっと、いっけない。今日振込みの日だ」
小鳥の言葉に律子が腕時計を確認すると14時半を回っていた。
小鳥「ちょっと事務所任せてもいいかしら?社長だけだとちょっと頼り無いしね」
そう言って小鳥は小さくチロッと舌を出した。
律子「確かに」
素直に答えた律子の言葉に小鳥はクスッと微笑んだ。
小鳥「ついでにお茶菓子とか買ってくるから少し遅くなります。多分来客は無いと思うから」
小さなバッグに用意してあった通帳と振込むお金をしまいながら小鳥は出る準備を済ませていた。
律子「了解っ」
少し慌しく出て行った小鳥を見送って律子は再びデスクに着いた。
転がっているペンを取ってクルッと回すと出納帳を開く。
3ヶ月前のページは律子とは違う丸っこい数字が書き綴られていた。
一人忙しそうに事務仕事をこなす小鳥に代わって律子が経理をやり始めたのは2ヶ月前。
プロダクションに所属して3ヶ月が経った時だった。
律子「もうすぐ半年、か…」
出納帳を閉じて仕舞うと左手で頬杖をつきながら右手でペンを回す。
特に焦っていると言う訳でもないがこのままが続くのかと思うと少し不安だった。
デビューして活躍している子も次々と出てきている。
春香や千早、美希と言った先陣を切って行ったアイドル達が羨ましくも思えた。
回しては戻し、戻しては回していたペンが右手から落ちてデスクを転がる。
転がったペンを鼻と口で挟み背もたれに寄りかかって大きく伸びをする。
律子「ん〜〜〜」
ふと<受験>と言う言葉が脳裏を過ぎった。
律子「〜〜〜っ、はぁ。やめやめ!考えてても仕方が無い!」
戻ると同時にデスクにペンを転がすと窓際の陽の当たる席に移動してハードカバーの小説を開く。
紐の栞を引っ張って続きを読み始める。
特にこれと言って面白いわけでも無いのだが時間を潰すにはもってこいだった。
短編の話しが幾つも綴られており、どの話しから読んでも問題が無い内容になっていた。
とは言っても初めて読む本なので最初から読んで来て今開いた所は4つ目の話し。
季節は丁度今と同じ1月を舞台にした男女の恋愛の話しの様だった。
律子「恋愛…ねぇ」
一定の間隔で聞こえるページを捲る音、時折眼鏡の位置を直す時に聞こえる音だけが事務所を支配していた。
普段あまり関わり合いの無い内容に少しながら興味が芽生え熱心に読み耽っているとコンコンと事務所のドアがノックされた。
律子「(来客?そんな話しは聞いて無いけどな…)はーい、今開けまーす」
紐の栞を挟んで閉じるとドアに向かって歩き出した。
ドアを引くと涼しげな感じの香りが律子の鼻腔をくすぐった。
律子「(いい香り…)」
ドアの先には一人の若いスーツ姿の男性が小脇にコートを抱えて立っていた。
男性「どうも、初めまして」
礼儀正しくお辞儀をした男性は年の頃から20代半ばに見えた。
さらりとした髪に鋭角的な顔立ち、切れ長の眼の上に逆ナイロールの眼鏡とチェーンがサッパリとした印象と同時に知的なイメージを律子に植え付けていた。
ついぞ先程まで恋愛小説を読んでいた所為か珍しいお客さんに気持ちが意識しない訳が無かった。
男性「あの、社長にアポを取って居たんですけど…?」
少し申し訳無さそうに喋る男性の言葉に律子は我に返った。
律子「へ?…あ、社長ですねっ!」
いつもより少し大きな声で喋ってしまった為なのか、社長が部屋から顔をだす。
社長「秋月君、どうしたのかね?」
出てきた社長が男性に気付く。
社長「おぉ、君か。待っていたよ!立ち話もなんだからこっちに来てくれたまえ」
社長が室内へと促すと「失礼します」と一礼をして男性は社長室に入っていった。
続いて社長も中に入ると社長室のドアを閉めた。
あっけらかんとしていた律子がお茶を淹れたのはそれから5分後の事だった。
お盆にお茶の入った湯のみを二つ乗せて社長室のドアをノックする。
「どうぞ」と社長の声がするのを待って静かにドアを開いた。
律子「失礼します」
コトッと男性の前にお茶を置くと「ありがとう」と男性は微笑んだ。
ピンクゴールドのフレームと丁番の手前の小さな惑星をイメージした飾りが目に止まった。
社長「ありがとう。秋月君」
社長が言い終えると律子は小さく礼をして社長室のドアに手を掛けた。
社長「あぁ、待ちたまえ」
不意に呼び止められてノブに掛けた手を止める。
律子「はい?」
社長「ちょうど今、呼びに行こうとしてたんだよ。こっちに来たまえ」
手招きしながら社長が言う。
律子「私をですか?」
内心不思議がりながらも社長の言う通りに社長の隣に移動する。
社長「では、紹介しよう」
社長が立ち上がってオホンと咳払いすると男性も一緒に立ち上がった。
社長「秋月君。君のプロデューサーだ!」
律子「へ?私がですか!?」
思わぬ不意打ちを喰らった律子に対して男性はニコッと微笑んだ。
律子P「よろしくね、秋月さん」
律子「…こ、こちら…こそ。…よろしく」
事態を把握しきれていない律子を他所に社長は上機嫌だった。
律子「また一人、トップアイドル候補が誕生したな!頑張ってくれたまえよ、二人とも」
律子P「はい!」
律子「…」
社長「もし時間があるならミーティングルームで早速親睦を深めるといい。信頼関係が大事だからね」
律子P「そうですね、早速ミーティングでもいいかな?秋月さん」
律子「…」
律子P「秋月さん?」
律子「え?あ、はい!」
緊張の所為か強張る律子に対してプロデューサーは「あははっ」と小さく笑った。
律子P「そんなに緊張しないで。いきなり色々詰め込んだりはしないから」
プロデューサーは社長室のドアを開けると律子を外に促した。
律子の後に出てきたプロデューサーをミーティングルームに案内する。
律子の真正面にプロデューサーは腰を掛けた。
律子P「さ、じゃあミーティングを始めようか」
律子「はい」
数分も経たない内に緊張が解ける訳も無く、律子は未だに鼓動が高鳴っていた。
律子P「とは言ってもプロフはさっき確認したし…何から話せばいいんだろ…」
プロデューサーの方も話す事を決めていた訳でも無さそうで少し考え込んでいる。
その様子を見て律子は少し安堵した。
律子「(何、緊張してるのかしら…冷静に、冷静に…)」
一つ深呼吸をしていつもの自分を取り戻す。
律子P「そうだ。何て呼べば良いかな?秋月さん?律子さん?」
律子「んー。どっちもくすぐったいので呼び捨てで構いませんよ」
律子P「そっか。じゃあ改めてよろしくね、律子」
「りつこ」と自分の名前が呼ばれるとなんだか少し恥ずかしい気もしたが「さん」付けされるよりはいくらか心地が良かった。
律子「こちらこそ、改めてよろしくお願いしますね」
律子P「実力以上の事は出来ないけど、実力は出し切れる様に努力するからお互い頑張っていこう!」
プロデューサーの言葉に律子は素直に感心した。
建前の無い本音。
嘘や見栄の飛び交うこの業界の中で飾らない本当の気持ちは好感が持てたし又、安心が出来た。
律子P「何か解らない事とか質問とか希望があったら遠慮なく言って欲しい。手伝える事は手伝うよ」
プロデューサーの言葉に律子は二つ思い浮かんだ事があった。
律子「あの、二つあるんですけど」
律子P「なんだい?」
律子「時間が空いてる時は事務仕事を手伝ってもいいですか?」
律子の言葉にプロデューサーは不思議そうに首を傾げた。
律子P「普段から手伝ってるとは聞いたけど、ふむ…」
プロデューサーは目を細めて少し考えこむと、しばらくして中指と薬指で眼鏡のブリッジを押し上げた。
律子P「いいよ」
半ば諦め気味で掛けた問いに肯定の言葉が返ってきたので律子は驚いて聞き直した。
律子「え?本当にいいんですか?」
2回目の問いにプロデューサーはにべも無く答えた。
律子P「いいよ?後学の為でもあるし、何処で役に立つか分からないしね」
そう言うとプロデューサーは小さく口を上げた。
律子P「ただ分かってると思うけど本業が疎かにならない様に」
律子「それは、もう!」
律子P「いい返事だね、残りの一つは?」
律子「絶対嘘は吐かないで下さい」
律子P「ふむ」
律子「おべっかとかそう言うのはかなりキライなので」
律子P「うん、分かった。約束するよ」
ははっと笑顔を見せるプロデューサーに対して律子はいつの間にか安心しきっていた。
飾らない言葉で素直に答えてくれるプロデューサー。
この人とならトップが目指せるかも知れない。
もしかするとトップとは別の道が開けるかも知れない。
自分の中に眠る無限の可能性の一つを探し当てる事が出来るかも知れない。
律子がデビューを迎えた今日
それは北風が吹き寒気が漂うも空は晴々として青く澄み切っていた12月の事だった。