それから3日目の朝、春香の不安はピークに達していた。
気分が晴れた分寝付く事は出来る様になっていたが流石に昨日の夜ばかりはいくら目を閉じても寝られる気がしなかった。
「今日は…お見合いの日…」
ここ二日間は嬉しさと不安の混じった複雑な心境の中、新曲の自主トレは欠かさずに行ってきた。
次にプロデューサーに会った時の為に必死で行った。
「何しようかな…」
正直、何かをする気にはならなかったが不安に押し潰されそうな事に無意識的に
防衛本能が働いてるのかとにかく何かをしないと気が済まなかった。
「掃除!掃除しよう!掃除機かけなきゃ…」
そういうと春香はここ3日間で7回目の掃除機をかけ始めた。
ゴミが落ちてる筈も無いことを承知済みの春香はスイスイと掃除機を滑らせていたが
テーブル周りを曲がろうとした時に足の小指を机にぶつけた。
ガツッ、バサバサバサッ
「あたっ!?…つつっっ。…あちゃー。」
デスクを蹴飛ばしたせいで本が辺りに散乱していた。
「はぁ…片付けなきゃ…」
自分で招いた不幸に落胆しつつも春香は本を整理し始めた。
「…あれぇ、これは?」
見覚えの無い小さなアルバムを見付けた春香は片付けを中断してテーブルの上に広げてみた。
横向きの写真が縦に3枚入るアルバムには春香がプロデューサーに初めて会った時の写真が入っていた。
「懐かしいなぁ、アハッ♪」
写真の中の春香は嫌がるプロデューサー無理矢理引っ張り出し片腕を抱き込んで
右手のピースサインをこめかみに当て無邪気にウインクしていた。
「これ、デビューして初めてオーディションに受かった時のだぁ!」
ふと律子にカメラを構えて待っていて貰っていたことを思い出した。
気付いてみれば確かに写真を色んな時に色んな人に撮らせていた。
そしてアルバム自体はプロデューサーが渡してくれていた事を。
アルバムのセロハンにポタリと雫が零れた。
「ぁ…ダメ!泣いちゃ…泣いてちゃ…駄目なんだよ…春、香。
…笑って…じゃあ…ねて…言うって…うっく…決め、ひっく…たのにっ…」
抑えようとすればするほど涙は止まらなくて、笑顔を作ろうとするほど切なくて…
春香は結局一日中泣き続けてそのまま寝てしまった。
「…ぁれ、寝ちゃったのかな」
春香が気付いた頃には日は明けていて時計は14時を指していた。
鏡で自分の顔を確認する。
「酷い顔…」
ぽつりと呟くと春香はシャワーを浴びて身体を流し終えると洗面台に向かい普段はあまりしない化粧を念入りに行った。
結果的に目の腫れぼったさ以外は化粧でごまかす事が出来た。
お気に入りのリボン結って鏡の中の自分に微笑んだ。
「最後なんだし、笑顔でね♪」
部屋に戻ると携帯電話を取出しメールを打った。
デスクマットの下から見える写真やスケジュール帳、メモの束に一通り目を通して
プロデューサーは煙草を吸いに事務所の外に出ていた。
春の暖かさに涼しい風が吹く小春日和の中プロデューサーの携帯電話が鳴った。
鳴る度にすかさず出る癖がついてしまったプロデューサーはすぐにメールの差出人を確認した。
確認してプロデューサーは乱暴に煙草を擦り消した。
「春香…」
件名:春香です
本文:今日の17時にお会い出来ませんか?
もし大丈夫でしたらこの前連れてって貰った海の公園で待ってます。
「…あの海か」
呟くと手早く返信メールを打つ。
春香の携帯電話が鳴る。
プロデューサーからのメールなのは着信音で確認出来た。
件名:
本文:必ず行くから
「必ず」という言葉に胸が締め付けられる思いがしたがすぐに正気を取り戻した。
もう逃げることは出来ない。
どっちにせよ、覚悟を決めなければならない。
二度と会えなくなるとしても、それが初恋の人だとしても笑顔でありがとうと
言わなければならない事を春香は心の中で何度も繰り返した。
時間より少し早く着いた春香は近くの自動販売機でホットのはちみつレモンを
買って半分程飲み干し軽く喉の調子を整えた。
深く深呼吸して瞳閉じて口を開く。
もっと遠くへ泳いでみたい♪
「うん、きっと大丈夫!」
軽いリハーサルを経て近くのガードレールに寄り掛かって春香は待った。
春香の恋を描くラストコンサート
開演まで、あとわずか…
あらかじめ駐車場に車を停めたプロデューサーは春香を探した。
浜辺を注意深く探しながら暫く歩いていると前方のガードレールに見覚えのあるリボンを結った女の子が目に入った。
「春香!?」
思わず声をあげてしまい近くの通行人の視線を集めてしまった。
その声に気付いた春香はプロデューサーの方を見ると柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです。プロデューサーさん」
その口調は今までの春香からは想像もつかない程落ち着いていて、微かに色気さえ感じられた。
「久しぶりだな」
気付かれない様少し声を張って返事をする。
「少しだけ歩きましょう、人目に付くところじゃちょっと…少し行った先にベンチがあるのでそこでいいですか?」
相変わらず淡々と話しを切り出す春香に戸惑いながらもプロデューサーは春香の意見を尊重した。
春香の言う通り少し先には海ではあるが木が植えられていて森林公園の様な造りをした公園にベンチがポツンと置かれていた。
「理由は教えて貰えるのかな?」
「その前に…」
そう言うと春香はプロデューサーの真正面に立って思い切り頭を下げた。
「ごめんなさい!」
急な事にプロデューサーは面を喰らったが言い回しが自分の知ってる春香と同じだった事に安堵した。
「うん。今謝ってくれたからそれはもういいよ。ちゃんと約束も守ってくれたから」
プロデューサーは優しく微笑んでくれた。
「それはいいとして理由を聞かせてくれないか?」
「はい。プロデューサーのお見合いの話しを聞いて…」
「う…それは、済まないと思ってる…俺がちゃんと話しておけば良かったな…」
「いえ。プロデューサーは悪くないです。私が勝手にいつもの暴走しちゃって。
あぁ…お別れなんだなぁって思ったらなんか疲れちゃって」
「春香、そのことなんだけどな。俺…」
「でも、もう大丈夫ですから!ちゃんと吹っ切れたし!」
プロデューサーの言葉を遮って春香は話し続けた。
「…春香」
プロデューサーの呟く声は春香にも聞こえていたが春香はそれでもまくし立てた。
「最後にうんと練習したんですよ、太陽のジェラシー。だから、聴いて下さい。最後に私の声…」
話してる途中に不意に涙が零れてしまったが悟られない様に横を向いた。
もっと遠くへ泳いでみたい 光満ちる白い Island
ずっと人魚になっていたいの 夏に今Diving
Dream 夢なら醒めないで
スパンコールの波間ではしゃぐ二人 ♪
春香の歌う新曲はこれまでの春香の曲とは比べ物にならないほどの完成度を見せていた。
歌詞の一句、一節からリズム感まで春香自信ですら気付いていないが完璧と言う言葉が
当てはまる出来栄えプロデューサーは心が震える思いがした。
そして春香の成長を心底喜んでいた。
歌い終えると春香はくるりとプロデューサーに背を向けた。
最初で最後のプロデューサーの為だけに歌うこの一曲を以って春香のラストコンサートは閉幕を迎える。
「…どうでしたか?」
「正直、驚いたよ…良くここまで…」
「それは、きっと…プロデューサ…さんの…為に…ただ一人の…代わりのきかない人…の為に…えたから…です」
春香の声が途切れ始めた。地面にパタパタと染みが作られていく。
「春香?」
「せいちょ…したでしょ?だから…だからぁ…だいじょぶなんです…。
プロデューサーさんがぁっ…ぃなくても…うぅっ…頑張れます…ひっく」
異変を感じとったプロデューサーが春香を振り向かせると春香の顔は涙で濡れていた。
春香は咄嗟にプロデューサーの手から逃れると涙も拭わずに笑顔を作った。
「ご指導ありがとうございました!お幸せに!」
そう言い残すと春香は逃げるように走りだした。
プロデューサーは春香の最後の笑顔に不意を突かれ春香が見えなくなるまで追う事が出来なかった。
「…クソッ!」
プロデューサーは自分の弱さに腹が立った。
春香なりの気遣いや頑張りに対して自分は何をしてやれただろうか?どう応えてやれただろうか?
結果的に春香の苦しみや切なさに対して何も出来なかった自分を呪った。
「春香の気持ちも分かってやれない…自分の気持ちも春香に言えない…これの何処が春香の担当プロデューサーか!」
プロデューサーは春香を追いかけて走り出した。
それから数時間経った今、未だに春香を見付けられずにいた。
自宅にも電話してみたがまだ帰ってないと言う。
辺りは既に暗くなっていて波の音だけが途切れる事無く耳を通り抜けていた。
(何処だ?何処にいるんだ!春香)
プロデューサーは海辺に春香がいることは確信していたがいまひとつ見付けられずにいた。
(浜辺は見た筈なのに…)
その時ふと春香の声が頭を過ぎった。
(マーメイド…隠れる?)
何かを思い付きプロデューサーそこに向かって走り出した。
春香は海を眺めていた。
船やヨットが浜辺に上げられている場所で小さなボートのへりに腰掛けていた。
既に涙も止まっていて思い切り泣いたせいか少しだけ気分は晴れていた。
吹〜き〜抜ける秋〜風〜 涙腺も〜枯れ〜たし〜
行〜き〜慣れた〜通りを〜 胸を張〜って〜
あ〜るいて〜み〜るっ♪
愛嬌で〜誤魔〜化す〜 恋愛は〜出来〜ない〜
次〜こそは〜上手に〜 やれるそんな〜気が〜
するーのーよっ♪
「アハッ♪今は春だけどそれ以外は今と同じかなぁ?次の曲は新しいプロデューサーさんに言ってこれにしてもらおっかなぁ。」
晴れた笑顔で足をパタパタさせながら星空を見上げた。
「新しいプロデューサーさんが来るまで私どうなっちゃうんだろ?」
人差し指でこめかみをトントン叩いて考える。
「活動停止かな…私なりに結構頑張ったんだけどなぁ…あと少しなのにな」
海の冷たい夜風が吹き抜ける。
「…クシュッ!」
「風邪ひくぞ」
「ごめんなさい!すぐもどりま…」
声のした方を振り返るとさっき別れた筈のプロデューサーが立っていた。
「ぁ…なんで…」
春香はボートから降りた。
「人のいない所で勝手な事ばかり言ってらっしゃる」
「あ…ぁ…」
春香は後退りした。
やっと少し吹っ切れた感情を思い出したくなかったから。
「来な…いで、下さい」
「聞く気は無い」
プロデューサーきっぱりと断ると近付くのをやめなかった。
「ぅっ…どーして…折角…」
プロデューサーが歩みを止めないのを知った春香は反転して走ろうとしたがその前に腕を掴まれ引き寄せられてしまった。
「…ぃや…離して…ひっく…ほっといて…」
泣きながら必死に抵抗する春香をプロデューサーはギュッと抱きしめた。
「どうしてぇ…んく…プロデューサーさ…けっこ…ん…するっ、でしょぉ?
…期待、ひく…せないでぇ…こ、なの…耐えられいよぅ…っ」
春香はプロデューサーにしがみついた。
今まで必死に抑えてきた感情がプロデューサーのせいで全部無駄にされ気持ちが全部溢れ出てしまった。
「ごめん…。春香の気持ち解ってやれなくてごめん。ハッキリと自分の事言ってやれなくてごめん」
ただただ泣きじゃくりながら自分の胸に顔を押し付ける春香を抱きしめながらプロデューサー話しを続けた。
「さっき言えなかったけどお見合いの話しは…断ったよ」
「え…?」
「良い話しではあったけど好きでも無い人と結婚は出来ないし、
時間をかけてと言われてもそんな時間は無い、俺には春香が居るから」
「…」
春香は黙って聞き続けた。
「それ位、プロデューサーとアイドルは近い存在でなきゃと俺は思ってる」
「…はい」
「だから春香も何かあったら打ち明けて欲しい。出来る限り力になるから。今後、約束してくれるか?」
そう言うとプロデューサーは春香の顔を覗き込んだ。
春香は「プロデューサーと離れずに済むの?」と言う意味を含んだ顔で上目使いにプロデューサーの顔を見上げた。
その問いにプロデューサーは笑顔で頷いた。
それを確認した春香はいつもの様に元気に答えた。
「はい!」
「いい返事だ!と早速だけど春香に打ち明けないといけないことが有ったり無かったり…」
プロデューサーは春香から顔を背けた。
「???」
不思議そうに見つめる春香の視線に耐え切れなくなったプロデューサーは今度はさっきよりもきつめに春香を抱きしめた
。
そしてそのまま囁いた。
「好きだよ、春香」
「……っ!?」
プロデューサーの言葉に春香は声も出なかった。
耳の傍で聞き違える事は無い。
プロデューサーは確かに言っていた。
「好きだよ」と…
「あ…あはははっ。やだなっ!プロデューサーさん、また冗談言ってっ!
びっくりするじゃないですかぁ、慰めてくれてるんですよねっ!?」
春香は冗談ぽくプロデューサーに聞き直した。
プロデューサーが優しさで春香が戻って来やすい様にそう言って安心させてくれたのではないかと思ったし、
春香自信にその言葉を聞く準備が出来ていなかったから理解が出来なかった。
「プロデューサー…さん?」
何も喋らないプロデューサーに春香は余計に混乱した。
「…もう一度言わす気か?」
ポツリとプロデューサーが呟いた。
その言葉で春香は確信した。
呼吸を整えようとしたが鼓動が高鳴っていて上手く息が出来なかった。
春香はプロデューサーの服をギュッと握ってしがみついた。
「…はい」
春香がそう言うとプロデューサーはまたキュッと抱き締める腕に力を入れた。
「…ちょっと、ちょっとだけ…苦しいです。プロデューサーさん」
「…」
「…」
お互いの鼓動と波の音以外何も聞こえなくなった時、プロデューサーは再び同じ事を春香に告げた。
「…好きだよ」
「女の子として…ですよね?」
「勿論だよ」
「…」
春香はまたプロデューサーの胸に顔を埋めた。
「馬鹿みたい…また、プロデューサーさんの話し聞かないで一人で突っ走っちゃって。
何の為に…いっぱ…泣いたんだろ…。」
「ごめん、俺も自分の意見隠してた。春香はまだ16だし、ましてやアイドルだし…。
もし言ってしまったら何か取り返しのつかない事になるんじゃないかって、思ってたんだ…」
「こ、こんなに…嬉しい事なら…ちゃんと、聞いておけば…良かった」
プロデューサーの服が涙で滲んでいくのが解った。
「あぁ、なんかすっきりしたな。言いたい事言えたし。やっと、春香にも会えたし」
プロデューサーは夜空を見上げた。
そらには大きな月と幾つもの星がキラキラと輝いていた。
「星空以外は、太陽のジェラシーの歌詞と似てるかな…?」
プロデューサーは照れくさそうに言った。
「ところで、そのぉなんだ…春香の返事は聞いてない気がするんだけど…」
「っ!?」
「どうなんだろうか…」
「言いましたよ…多分」
「聞いてないと思うんだけど…」
「…」
春香は覚悟を決めてプロデューサーの顔を見つめた。
「好きです…プロデューサーさん。今までよりももっとプロデューサーさんの近くに…置いてください!」
「…良かった」
「え?」
「これで断られてたらどうしようかと思ったよ」
プロデューサーは笑いながら言った。
「…解ってた癖に…、ずるいです」
「そうかもしれないな、安全な道が見えたからそっちに来てしまったのかもな」
「むぅ…」
そう言うと春香はぷくっと頬を膨らませた。
「じゃ、一つだけお願い聞いてください」
「楽したお詫びかな?出来る事ならいいけど…」
「太陽のジェラシーにも2番があるんですよ」
「知ってるけど…」
「さっき言いましたよね?「歌詞と似てる」って…」
「うん」
「じゃあ…してください。太陽のジェラシーの2番…」
「2番…」
そう言うとプロデューサーは歌詞をなぞり始めた。
「〜追いかけてはぐらかしながらわざと走る遥かシーサイド、つかまえて…」
そこまでなぞってプロデューサーは気付いた。
「これって…」
プロデューサーは春香の顔を覗きこんだ。
春香はほのかに顔を赤らめながらプロデューサーの胸をじっと見つめるように押し黙っていた。
その表情を見て春香が決意の上で言っている事に気付いた。
「…春香」
プロデューサーは春香の体を優しく離した。
言い出した春香だったがこの中途半端な距離でどんな顔をすれば良いのか解らず目を逸らしてただただ自分の鼓動を聞いていた。
そっとプロデューサーの顔が近づいてくる。
触れ合う直前、少し体を引き寄せられたのを合図に春香はそっと目を閉じた。
「…ん」
触れ合った唇からプロデューサーの微かな体温が感じられた。
それだけでも春香はふわっとした暖かさに嬉しさが心の底から込上げてきた。
ゆっくり離れていく唇がもどかしくもあったが、それ以上にプロデューサーのもっと近い場所に進めた事が何よりも嬉しかった。
プロデューサーの首に腕を回しぶら下がるような形で春香は思い切り抱き付いた。
「アハッ♪やっぱりプロデューサーさんは私のプロデューサーさんです!歌の歌詞もちゃんと覚えててくれたし!」
「当たり前だろ!春香の担当というより専属のプロデューサーで居たつもりだぞ、俺は」
プロデューサーは顔を赤らめながらそっぽを向いてそう話した。
「エヘヘッ!プロデューサーさん♪……好、き♪」
「…っ!?も、もう寒いから帰るぞ!明日、一日休んだら明後日からみっちりしごいてやるからな!」
「はーい!がんばりましょうねっ!」
「ったく!」