「んっ…うぅん…」
ヘッドホンから控え目のボリュームで音楽が聞こえてくる。
目覚ましにしては多少煩わしくもあるロックの曲を耳から遠ざけて再び眠ろうとした時
「…の高梨です。本日は当機のご利用ありがとうございます。当機は○○××便―」
と聞きなれない声が聞こえてきた。
「はぁ…」
眠る機会を奪われた悔しさから小さく溜息を吐く。
それでも瞼は閉じたまま少し眉間に皺を寄せて黙っているとそんな気持ちも知らず機内アナウンスはお構いなしに耳に飛び込んでくる。
「…若干の揺れがございますが、運航には問題ありません」
(運行に問題が無いならそれでいいから…ちょっと寝かせて…)
狭い座席で小さく片耳を塞ぐように寝返りをうって本格的に寝る体勢に入る。
「お目覚めの方、いらっしゃいましたら窓から外をご覧下さい。現在当機は富士山上空を航行しております。生憎と雲に覆われていて見えませんが―」
(意味ないじゃん…)
「その代わりに暦上春になったこの月、東京では年々見る事の少なくなった雪が見えてきております」
(…雪っ!?)
聞く耳も無かったアナウンスにその単語が出てきて慌てて飛び起きた。
急いで窓にへばりつくと薄暗い雲の所為でどんよりとした空に小さな白い粒がはらはらと舞い降りていた。
「ぉわぁ…綺麗…」
思わず口から出た言葉も自分自身気付かなかった。
いつか見たいと思っていた雪
上京したらいつか見れるかも知れないと期待していた物がこんなにもすぐに見れた事に驚きと嬉しさは隠しきれなかった。
時折窓に付着する雨ではないその白い塊は微かに光を帯びて神々しい印象さえあった。
触ってみたい
本当に冷たいのかな?
そんな期待感を膨らませてしばらく見入っているといつの間にやら下の世界は都会と言う名に相応しいビル郡が大小ひしめき合う様に立ち並んでいた。
見れば無機質な感じのする街並みはうっすらと白く染まり冷たい印象を受けた。
「今日から…ここで…」
ごくりと小さく喉を鳴らし静かに瞳を閉じて一つ深呼吸。
ちょっとした不安も髪を結ったリボンを一撫ですると微かに和らぐ。
(ここに…”彼”がいるのか…)
あの日
あの場所
”彼”との思い出…
「いつか、絶対会いに行くからねっ!ちゃんと自分の事、待っててよねっ!」
そう言って見送った飛行機に自分は今乗っている。
「間もなく着陸態勢に入ります、シートベルトをご着用下さい」
不意に聞こえてきたフライトアテンダントの声にふと我に返る。
幸い何事も無く着陸を終えた飛行機を降り大きなリュックサックに詰め込んだ荷物を受け取ると響は駆ける様に空港を飛び出した。
「うぅおゎっ!さーむっ!」
慌てて室内に戻って荷物から新調したてのロングコートを取り出して羽織った。
「うーん…言う事聞いてなかったら死んでたな、これは…」
「寒いから買っとけ」
と言う家族の言葉に嫌々ながら少し綺麗めのコートを買ったのは正解だった。
でなければ今頃空港内で無駄に高そうな都会のおば様が着ていらっしゃる様な服を物色していただろう…。
「とてもじゃないけど着れない…」
そう言って綺麗目のコートに不釣合いなリュックサックを背負って響は目的のホテルへと向かった。
何度か電車を乗り継ぎ、駅の中を彷徨いながらもどうにかホテルのある駅へと辿り着いた頃には既に辺りは暗くなっていた。
それでも響の故郷に比べると夜の街は建物や車の明かりが絶え間なく続きまた違った一日の始まりの様にさえ感じられた。
そんなギャップの中でももっとも印象的だったのは人の多さである。
数十、数百とも見える人が行き交う駅構内はそれだけでも圧巻で人の流れと言う言葉を実感させられた。
大きな荷物を背負いながら人の波にもみくちゃにされながらようやく駅を出た所で響は再び肩を落とす。
「はぁ〜…また…?って言うか、まだ…?」
大きな大きな交差点を目の前にして信号の手前や先に群がっている人 人 人…
荷物の所為でやたらと人にぶつかり異常に体力を使いながら歩いてきたのにまだ続く。
「これ…慣れるのかな…」
独りポツリと呟きながら信号が変わるのを待つ。
信号が変わった途端、突き飛ばされる様に響も歩き出した。
交差点の真ん中に差し掛かった時
響の視線が歩みと共にふと止まった。
目深に被ったダッフルのコートのフードからツンツンと癖っ気のある髪を揺らしふわりと甘い残り香を落として響を追い越した少女。
人込みを気にせずこなれた感じで避けながら駆けていく。
何が特別すごい訳でも無い。
何処にでも居そうなファッションでどちらかと言うと地味に見える。
ただ表し様の無い何かがその少女にはあった。
「あれ…って」
何処かで見た事が?と呟きかけると同時に人の流れが交わった。
ドンッ
「あ、ごめんなさっ…うわっ!」
我に返って進もうとしたが人の波に荷物がさらわれバランスを崩した響はそのまま引っ張られる様にして尻餅を搗いた。
グシャリ
と強かに打った尻から言い様の無い踏み馴らされた雪の感触が伝わってくる。
「ったぁ…」
座り込んでいる響に向かって小さな舌打ちが聞こえてくる。
「えっ…」
何故自分が?
そう思う暇も無いほどただショックだった。
単身上京してきた少女の身には刺さる程の冷たさだった。
故郷の暖かさ、都心の冷たさは気温の差だけではなかった。
トラウマが蘇る。
「っ…」
自分の体を抱き締める様にして震えながら俯いたまま思わず零れそうになった涙を必死に堪えていた。
「大丈夫?」
不意に隣から声を掛けられ響は体をビクッと振るわせる。
恐る恐る声のする方を見るとチェスターコートを羽織った20代半ばの男性がこちらを気遣う様に覗き込んでいた。
「あ、はい…」
先の一件から意気消沈している響を立たせると男性はゆっくりと荷物を支えながら響を信号の終わりまで付き添った。
「あの、ありがとうございました」
気の無い御礼を返す響に対しても男性は柔和な笑みを崩さなかった。
今になって気付けば走ってきたのか呼吸が少し乱れていて、コートやスラックスの裾が雪の所為か酷く汚れていた。
「いや、逆に危なかったからさ。何処か行く途中だったの?」
「え?」
「あ、ごめん。大きな荷物抱えてるし、それに―」
チラリと男性の視線が響の手元に移る。
つられて視線を移して響は納得した。
濡れた地面の所為でぐしゃぐしゃに萎れた、目的地であるホテルの地図をプリントしてあった紙がその手に握られていた。
「あぁ…これじゃ見れないや…」
「ホテル?」
「あ、ハイ。サンロクって言うホテルなんですけど…」
そこまで言うと男性は一瞬ピクリと表情が固まったがすぐに元に戻ると何度が頷いて慣れたジェスチャーで道順を説明してくれた。
「そのホテルなら、ここを真っ直ぐ行って4個目の交差点を左に曲がって最初の交差点のはす向かいにあるよ」
男性の細かな説明をうんうんと相槌を打ちながらその暖かい雰囲気の仕草と口調に”彼”に似た物があると感じつつも
響は自分でも気付かぬ内に何処か安心させられていた。
「ほんとですか!?もうすぐそこなんですか?」
「うん、距離にしたら500m位じゃないかな?」
「やったー!ありがとうございます!」
深々と頭を下げて御礼をすると同時に何処からか叫ぶ様な声が聞こえて来る。
「…ニー!なに…のーっ!置いて…よーっ?!」
その声に男性の顔が引きつる。
「やばっ…!?すっかり忘れてた」
「?」
声のする方に視線を移すと先程のダッフルを羽織った少女が手を振っていた。
「大した事してないからっ!それに…」
「それに?」
「あ、いやいいや。じゃあ急いでたの思い出したから行くねっ!」
「あ、はいっ!本当にありがとうございましたっ!」
「いえいえー」
そう言いながら男性は軽く手を上げて少女の許に駆けて行った。
少女と男性の背中が小さくなって見えなくなったのを確認して響は教えられた道順を辿り歩き出した。
ショックで一時的な不安に陥ったものの、良い人もいるんだと思うといつの間にやら気分は晴れやかだった。
それにここは”彼”の住む街でもある。
そうそう悪い事ばかりじゃないと前向きに転換して歩くと男性の言った通りホテルは左程時間も掛からず辿り着く事が出来た。
「着いたー」
すぐにチェックインを済ませ部屋に入る。
一人で泊まるには少し広く感じる部屋だった。
荷物を降ろしそのままの姿でセミダブルのベッドに突っ伏す。
バネの効いたベッドが響の体を小さく弾ませた。
「ふかふかだぁーっ♪」
はぁーっと幸せな溜息を吐いてここを用意してくれたプロダクションに心の中で目一杯感謝した。
ここは響が明日、デビューの為にプロデューサーと社長に初顔合わせする事務所 765プロが用意してくれた部屋だった。
勿論費用は会社持ちなので響は行きの交通費と荷物と体一つでここに泊まれる。
交通費も後で返してくれるそうなので至れり尽くせりだった。
しばらくはここを拠点に活動を開始して後々の活躍次第では社宅のマンションに住まわせてもらう予定だ。
逆を言えば活躍出来なければここでお終いと言う事も有り得るので否が応でも響は頑張らなくてはならない。
しかし今の響にはそんな事を考える余裕は無かった。
やっと東京の活動拠点に辿り着いた安堵でいっぱいだった。
「うーっ♪…はっ!?コートが皺になっちゃう!」
慌ててクローゼットを開けてハンガーにコートを掛ける。
「うぅ、気色悪い…パンツまで濡れちゃってるな…」
デニムの上からお尻を確認してお風呂の準備をする。
「ん…?どうやって沸かすんだろ…」
生まれてこの方、ホテルに泊まった事の無い響はとりあえず赤いコックを捻る。
「これか!おぉ…お?おわっちっ!!んうーっ?」
今度はとりあえず青いコックを捻ると水が出てきたので両方を捻って温度調整をした。
「なるほど…すごいゾ!東京!」
一人関心しながら湯船が溜まったのを見届けて濡れた衣服から開放される為にすぐに湯船に飛び込んだ。
「ふぁーっ♪極楽極楽♪」
程よい暖かさの湯船が寒さで硬くなった体を解してくれる。
湯船の中でもあもあと立ち昇る湯気を見詰めながら今日の出来事を思い返す。
「雪…初めて見たなぁ」
ひらひらと舞い降りる雪
空港から出てしばらく見詰めてたっけ。
「良い人だったなぁ」
何処か”彼”に似た雰囲気の男性
他の子が言う程、怖い事ばかりじゃないかも知れないなぁ。
ズリズリと浴槽で体を滑らせて顎まで湯船に浸かる。
「あの子…何処かで、うーん?」
ダッフルのフードを目深に被った少女。
知らない筈なのに何だか見た事があるような…
「あーーーーーーーーーーーっ!?」
湯船のお湯を盛大に零して響はバスタオル1枚で飛び出ると持ってきた荷物を漁った。
「これだっ!」
中から1冊の雑誌を取り出す。
表紙は”765プロ ビジュアルクイーン 星井美希 いよいよTOPの座へ” と言う見出しがでかでかと掲載されていた。
「美希ちゃん…だったのかな…」
そんなトップアイドルが街中を歩いているのか?と言う疑問が浮かぶ。
それでも言い表しようの無い彼女の雰囲気は確かにそう言う物だったかもしれない。
「そういえば男の人が何か言いかけてたな…なんだったけ?」
結局思い出す事は出来なかったが今日見かけた少女が美希なら彼女が呼んでいた相手は恐らく
「プロデューサー…かな?じゃあ、近い内にまた会えたりするのかな?」
また、会ったら御礼を言わなきゃと思いつつ響は湯冷めしない内に体を拭いて寝支度を済ませる。
家族に無事に着いたと電話を一本入れて、一瞬で気に入ったふかふかのベッドに潜り込んだ。
そして何時も肌身離さず身に着けているリボンを手元に引き寄せた。
「へへっ。自分、やっと東京に着いたよ。いつか絶対会えるよねっ♪」
そうお気に入りのリボンに小さく話しかけキュッと抱いて響は眠りについた。