例年稀に見る積雪は街を真っ白に染め上げていた。
道路、ビル、街路樹
その白化粧を施した都心の一部
縦横斜めと6方向の人の行き来を調整する大きなスクランブル交差点
ポツリポツリと小さな粒が灰色の空から降りてくる。
白い息が所々からふわりと舞い上がる中、紛れるように千早は立っていた。
黒のダウンのフードを深くかぶると視界の半分はキジ色のファーがゆらゆらと風にそよいでいる。
シグナルが青に変わると辺りの人達はフライング気味に我先にと道を急いでいた。
千早は一呼吸おいて第一陣をやり過ごし、少し遅れて交差点を歩き出す。
膝上まで覆ったブーツが雪を踏みしめるとギュグッと音を立てた。
向かってくる人達を避けて慎重に歩みを進めながら交差点の中程まで差し掛かると前方からも急ぎ駆けてくる人が視界に入ってくる。
「・・・!」
何やら小さく叫ぶ声がした。
千早の視線を茶色のビジネスシューズと厚底のブーツが掠めていく。
声にならない程微かに零れた戸惑い
千早はゆっくりと振り返った。
視線の先には駆けて行く二人の男女だけが鮮明に映し出されていた。
「フフッ」
千早は小さく微笑むと再び歩み始めた。
フードを脱ぎ、アップにして留めていたコンコルドを外しサラリとした長髪をアーマーリングをはめた右手で一度かきあげて
<First Stage>
暦上、冬に入ったその時。
既に夜は凍る様な寒さがシンと静まった夜の街を包み込んでいた。
静に街を見下ろせる小さな丘の公園。
辺りにはヒーヒーヒーと秋の虫がその存在を示している。
千早は一人そこに佇んでいた。
歌手になりたいと言う夢を追いかけて765プロに所属して三ヶ月あまり。
その夢は静かに、そして確実にゆっくりと現実へと溶け始めていた。
千早が事務所の社長室に呼ばれたのはまだ秋を思わせる様な優しげな陽射しの射す暖かな日だった。
「社長、私に何か用事ですか?」
小鳥に社長室に行くように言われてドアを開けるとそこには社長と見慣れない男性が一人立っていた。
「あの…」
「おお、如月君。待っていたよ!」
社長は仕切り直すかの様に一つ咳払いをした。
「はぁ…」
千早は気の無い返事を返す。
それもそのはず、知らない人が目の前に立っているのだ。
チラリと男性の顔を伺う。
薄茶色の金属で出来たアンダーリムの眼鏡を掛け、そう長くはない前髪を上げた男性は見た目から千早とそう歳は離れてない様な印象を受けた。
いつもの社長室と違ってほんの少しだけ涼しげな花の香りが漂っていた。
「彼は新しく君のプロデューサーとして配属されたのだよ!」
社長は何処か自慢げに、そして何処か嬉しそうにそう言った。
「プロ…デューサー、ですか?」
千早がもう一度男性に視線を移すと男性はニコリと微笑んだ。
整った顔立ちが好印象を何倍にも膨れ上がらせた。
これが営業スマイルと言うものか、と考える余地は今の千早の頭の中には無かった。
やっとまともに歌手を目指せる
自分の歌を聞いてもらえる
ただただ歌に関する事だけが千早の中を巡っていた。
「今日から担当する事になった 対馬 悠也です。よろしくね、如月さん」
ふとそんな言葉が千早を現実へと引き戻す。
気付くと対馬 悠也と名乗ったプロデューサーが右手を差し出していた。
「あ、はい。如月千早です。こちらこそよろしくお願いします」
スッと差し出された手に右手を重ねると小さく力を込めた。
二人の姿を見た社長は満足そうに何度も頷いた。
「頑張ってくれたまえよ!早速、親交深めてはどうかね?」
嬉しそうにニコニコと微笑みながら社長は言った。
「そうですね、じゃあ如月さん。ミーティングにしようか?」
「わかりました」
「それでは社長、ミーティングがてら昼食と言う事でよろしいですか?」
悠也がお伺いを立てると再び満足そうに社長は一つ頷いた。
「それでは、失礼させて頂きます」
悠也に続いて千早も社長室を後にする。
悠也と共にたどり着いたのは小さな喫茶店だった。
年の頃からマスターの娘とも取れる若い女性が明るく挨拶をする。
「あ、いらっしゃいませ♪」
親しみのこもった挨拶を悠也も返す。
「こんにちは」
挨拶をしつつ千早よりも小柄な女性を見ていつも元気だなぁと悠也は内心呟いた。
「今日は…お二人様ですね?」
女性は後ろの千早をチラリと覗きこむとそう確認した。
「はい、禁煙席空いてますか?」
悠也が応えると準備をしようと一歩踏み出した女性の足が一瞬止まったが直ぐに元の笑顔で禁煙席に案内される。
席に着いてメニューを渡される。
「ゆっくり選んでいいから、好きな物頼んでね」
悠也は自分の注文は決まっているらしく、千早にそう言うとお冷やをチビッと口にした。
心地好い冷風が店内をそよいでいた。
千早は自分の注文を決めると水濡れ防止用のビニールに包まれたメニューをはたと閉じる。
それを見計らってか女性が伝票を出しながら近付いてくる。
アイスコーヒーとアイスカフェオレの注文を取ると女性はパタパタとカウンターに向かっていった。
千早は二人のやり取りを見ながらお冷やに口をつけた。
冷たい水に微かにレモンの香りと味が口の中を掠めて喉を通っていった。
「如月さん」
不意に声を掛けられ千早は慌てて悠也に振り返り両手で持っていたグラスを置いた。
「は、はい?」
悠也は真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「いきなりで申し訳ないんだけど、一つ聞いてもらいたい事がある」
その静かな口調に千早は小さく喉を鳴らした。
「なんでしょうか?」
なるべく自然に聞こえる様に千早は少し低い声でそう聞きなおす。
「うん…」
少し言い辛そうにしている悠也の言葉を千早は静かに待っていた。
少しの沈黙の後、悠也はゆっくりと口を開いた。
「ジャケット脱いで、ネクタイ外していいかな?」
真面目そうに言う悠也の言葉に千早は耳を疑った。
この人は何を言っているのか?
そう思い一瞬答えに詰まった時、その意味を悠也のこめかみが教えてくれた。
彼のこめかみをゆっくりと汗が伝っている。
「クスッ、どうぞ」
千早の思わず零れた笑みと共に答えを聞いた悠也は嬉しそうに微笑むとその小さな願い事を実現する。
「あぁ、生き返るー」
悠也は涼しそうに眼を細めていた。
「暑い…ですか?」
怪訝そうに千早は質問を投げ掛けた。
陽が射してるとは言え秋の陽気である。
ましてや店内には寒くも暑くも無いほどの冷房が効いていた。
長袖の千早でも冷たい飲み物を飲むと少し背中が冷えてしまう程だった。
「ん〜、暑かったね。北国育ちだから都会は暑いのかも知れないね」
喋りながら尚も暑さから開放され悠也は涼しさを満喫していた。
少し複雑な心境で悠也の様子を伺う千早の目にキラリと光る物が見えた。
悠也の胸のポケットから銀色の箱が照明の光を反射している。
「あの…」
涼しさを満喫している悠也に申し訳無さそうに千早は声を掛けた。
「ん?」
上げていた顎を下げて悠也は千早に視線を戻した。
「お煙草吸われるんですか?」
千早に言われて悠也は自分の胸ポケットを確認した。
「あぁ、うん。吸うよ」
さも当たり前のように悠也は答えた。
「じゃあ、喫煙席でも。私は気になりませんから」
千早が言うと悠也は首を横に振った。
「俺が気にするんだ。だから、気にしないで。これからも如月さんの前では吸わないから安心して」
悠也の言葉に内心ホッとしながらも千早は複雑な心境を隠せなかった。
自分の為に何かを我慢させると言う事に些かなの躊躇も無いほど千早も顔の皮は厚くない。
「そうですか…」
嬉しい様な困った様な面持ちの千早に悠也は小さく微笑んだ。
「ありがとう」
自分の心境を察してか悠也の掛けた言葉には何処か暖かい物が感じられた。
「いえ」
そんな悠也の気遣いに千早も薄く微笑を浮かべた。
「うん、やっぱり笑ってる方がカワイイね」
突拍子も無くそんな事を言われ千早は耳の先が熱くなるのを感じた。
「な、なにを!?」
「そのままの意味だけど」
にべもなく悠也はそう言った。
火照った頬を冷ますように千早は注文したアイスカフェオレを口に含んだ。
「プロデューサー、私からも一つお願いが」
ストローを口から離すと同時に千早は言った。
「ん、なんだい?」
「私の事は千早と呼んで下さい。如月さんと呼ばれるのはなんだかくすぐったいです」
「ん〜そっか。解ったよ。じゃあこれからもよろしくね、千早」
特に理由を聞く訳でも無く悠也は微笑んでそう答えた。
「はい」
千早も返すようにまた小さく微笑んだ。
この日、二度目の握手を交わすと千早の胸には一つの暖かな想いが芽吹いていた。
この人となら上手くやっていけるかも知れない。
この時はそんな漠然とした事だったけれど千早は確かにそれを感じていた。
<Here we go>
その後、二人は今後の予定を話し合っていた。
途中、甘い物が食べたくなった悠也に付き合って千早もケーキを注文し時折摘まみながら多分に私事の混ざったミーティング。
はたから見れば恋人同士が喫茶店で談笑している様にしか見えないかも知れない。
それ程、思わず笑みの零れてしまう様な会話が小さな喫茶店で成されていた。
千早から見るに対馬 悠也と言う男性は真面目な性格をしているが頑固ではなく、柔軟な思考を持っており
その代わり自分の夢や、理想に関しては決して譲らない信念を貫き通す真っ直ぐな人間だった。
また、物怖じして相手の顔色を伺う様な所も無く自分の意見はハッキリと伝え逆に相手の意見も正面から受け止める。
そんな悠也に千早は好感が持てたし、少なからず尊敬すら感じていた。
それと同時に久しぶりに楽しい時間を過ごした所為か、以前から見知った友人だった様な気さえしてくる。
話しが中断し悠也が2杯目のコーヒーを待っている時、千早は大きな窓から外の様子を眺めていた。
外は鮮やかに晴れている。
良く手入れをされていた花壇の花が葉をキラキラと輝かせながら陽を求め首を伸ばしていた。
こんなに穏やかな気持ちで外を眺めたのはいつ振りだろうか。
歌う事
つまり夢を追う事
それはすべからく
現実から逃避する事
両親から逃げる事…
いつの間にかそんな風に考えてしまっていた自分を千早は少し恥じた。
悠也は自分の夢の為にこの世界に入ったのだと言う。
自分の手で誰かを輝かせたい。
誰もが羨む様なアイドルを育てたい。
自分も一緒に育っていきたい。
(いつか誰かに自慢したいとも言っていたけれど)そんな自分を二の次にした様な思いでプロデューサーを始めたと悠也は笑って言った。
その言葉を聞いただけで千早の胸はチクリと痛んだ。
そして自らの夢を逃避の為の手段にしてしまっていた不明をただただ恥じた。
この時、悠也と話す事で胸に射した一光を大事にしようと千早は心に決めた。
そう思うと不思議と千早の気持ちは穏やかに、軽やかにざわざわとした濁った思いを押しのけていった。
自然と笑みが零れ、歌いたいと言う気持ちが沸々と沸き上がっていく。
「プロデューサー!」
居ても立っても居られず千早は声をあげた。
「う!?どうした?」
2杯目のコーヒーを受け取り喉を癒していた悠也は不意に声を掛けられ咥えていたストローから口を離した。
「私の歌、聴いて下さい!」
千早は真っ直ぐ悠也を見つめていた。
「今すぐ?」
一息置いて悠也は再びストローを咥えた。
「今すぐ!」
爛々と瞳を輝かせてそう訴える千早を一度見上げて悠也はポチポチと携帯電話の操作を始めた。
複雑そうないくつかのボタン操作してロックを外すとストローを咥えたまましげしげと画面を見つめている。
「んー」
貸出品と思われる携帯電話を操作しているので千早にはスケジュール、若しくは事務所の使用状況を確認しているのは直ぐに読んで取れた。
「ボーカルレッスン室空いてるみたいだからそこでいいかい?」
パクッと携帯電話を折りたたむと悠也は千早にそう尋ねた。
千早は大きく一つ頷く。
「オッケー。じゃあ行こうか!」
悠也は手早く会計を済ませ千早と一緒に事務所に戻ると小鳥に事情を説明してレッスン室に向かう。
防音の施された重たいドアを開くとむっとする様な湿気が部屋に充満していた。
中にはピアノが一台と休憩用なのかベンチがいくつか置いてあるだけだが機材さえ積み込めばレコーディングも出来てしまう様な完璧に仕上がった施設だった。
千早が765プロに決めたのはこの施設の存在が8割を占めると言っても言い過ぎではなかった。
「んっんん、あーあー」
軽く声を出して喉の調子を確かめる。
今日はいつに無く声の調子が良い様な錯覚に千早は満足そうに小さく笑った。
悠也は少し離れて千早の前に立ってその歌声を待っていた。
「いきます」
千早はそう言うと細い深呼吸を一つ半してそっとメロディを奏で始めた。
曲名アメイジング グレイス
ゆっくりとしたバラードが千早の口から振動となって流れる。
「っ!?」
悠也は驚きを隠せなかった。
千早の歌唱力
それは悠也の想像を遥かに超えていた。
一字一字確実に丁寧に歌われる歌詞
緩やかに正確に譜面をなぞるメロディ
そして終わりに近付くにつれ、逆に伸びる声
千早の声で紡ぎ出されたその歌は悠也の心を簡単に奪っていった。
悠也の頬を暑さとは別の汗が伝っていく。
唾を飲む事さえも耳障りになりそうなその歌声に悠也は完全に聴き惚れていた。
自分でも気付かない内に握り締めた手が汗ばんでくる。
この子は、すごい
そんな単純な語彙でしか言い表せない自分を悔しく感じたがそれ以外に思いつく言葉などは無かった。
千早なら高みに手が届くかもしれないと直感的に感じた悠也の鼓動はドクドクと緊張にも似た速さで波打っていた。
瞳を閉じて歌う千早の声がビブラートを震わせながら静かに消えていく。
溜息を吐く様に小さく息を吐くと千早は静かに瞼を開いた。
「如何でしたか?」
千早は感想を聞こうとプロデューサーに声を掛けたが悠也からは返事が返ってこなかった。
その様子を見て千早が小首を傾げると悠也はハッと我に返った様にパチクリと瞬きをする。
「いや…正直ここまでとは…」
と千早の質問に答えるとは別に独り言の様に悠也は小さく呟いた。
「上手く歌えてましたか?」
確認する様にもう一度質問を投げる千早に対して悠也は返事をしなかった。
「プロ、デューサー…?」
うんともすんとも言わなくなった悠也の顔を覗きこむと視線はやや下を向き目を細めている。
その表情から何かを考えている事は解ったので千早は悠也が正気に戻るのを待つ事にした。
沈黙がボーカルレッスン室を支配していた。
完璧なまでの防音は風を通す事も抜く事も許さない。
ただ蒸し蒸しとした不快指数だけが二人の周りを漂っていた。
「…うん」
誰に言うでもなく小さく頷くと悠也は千早の手を取った。
ビクリと身体を震わせ疑問に満ちた千早の顔も悠也は視界に入っていない。
「あ、あの…プロデューサー?」
「行こう、千早」
そう言ってボーカルレッスン室を後にする。
「あの、ちょっと!?」
「千早、すぐに行こう」
「ですから、何処に?」
半ば無理矢理に引きづられ困惑し助けを求める千早の言葉に悠也はやっと千早の方を振り向いた。
それでも走りたいと言わんばかりの早足は止まらない。
「営業に行こう!」
嬉しそうに悠也は言った。
「営業ですか?」
「千早なら絶対に高みを目指せる、そう確信したよ」
千早の予想していた答えのどっちでも無かったが悠也はやっと感想を述べてくれた。
自分の歌が認めてもらえた。
そう思うと千早の胸の奥をじわりと暖かな感覚が包み込んでいく。
自分が求めていたのはこの感覚なのかもしれないと再認識する事ができた。
「もうデビューしたんだ、今から営業開始したって誰も文句は言わない。なら、先にやったもん勝ちだな!」
事務所の扉を開けながら悠也はそう言うと逸る気持ちを抑えきれないのか遂には千早を引っ張って走り出した。
大好きな玩具を買ってもらった子供の様に眼を爛々と輝かせて言う悠也の顔を見て千早は思わず微笑んだ。
「営業と言っても何処に行くんですか?」
ふとした疑問を投げ掛けると悪びれた様子も無く、力強く悠也は言った。
「解らない」
その答えには流石に千早も苦笑を隠せない。
「でも、一つ言えるのは。俺のプロデュースは始まってる。千早の歌手としてのデビューももう始まってる!」
走りながらそんな事を言う悠也だがその言葉にはなんの躊躇いも、疑心も無かった。
ただ、もう既に始まっているプロデューサーとしての人生と千早のデビューに期待だけが募っている。
「そうですね」
クスリと笑って言うと千早も悠也に足並みを揃えて走り出す。
「忙しくなりそうだ。急げ、千早!」
「はい!」
そんな希望と期待に満ち満ちた会話のやり取りをしながらデビューとプロデュースを迎えた二人は大きな交差点を走り抜けて行った。