<チェシャ猫の名前を叫んだ>

「チェシャ猫ーっ!」

私の叫び声がシンとした路地裏に木霊する。

返事は無い。

「はぁ?何言ってんだ、こいつ。頭おかしいんじゃねぇ?」

男が馬鹿にした様な薄ら笑いを浮かべる。

「チェシャ猫…」

歪みの国だったらいつもこんな時はチェシャ猫が居てくれたのに…

ポロポロと涙が零れる。

私は独りなの…

「あらあら、泣いちゃったよ。クククッ、泣く事も出来なくしてやるよ。おい、押さえとけ」

コツコツと男の靴が視界に入ってくる。

「おい!聞いてんのか?」

男が苛立った声を上げる。

「あ…あ、あれ。なんだ?」

「あぁん?」

ピタリと靴音が止む。

「な、なんだ…ありゃ…く、く!?」

「くっく…首が…!」

二人組みの男の声が震えている。

「鎌…お…落と…首が…」

しどろもどろに呟いている男を見上げると入って来た方を向いて固まっている。

その時

ンニャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!

耳をつんざく様な巨大な猫の鳴き声が響き渡った。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

男達が悲鳴を上げて逃げ出していくのを私は呆然と見つめていた。

「今…何が…」

あまりにも急すぎて思考能力が追いつかない。

男の言葉が脳裏をよぎる。

「鎌と首って…」

「フフフッ♪」 カランコロン♪

「えっ!?」

今の声と音に私は聞き覚えがある。

カツカツと足音が遠ざかって行く。

「待って!」

私はお腹の痛みも忘れて無意識の内に走り出していた。

「女王!チェシャ猫!」

路地裏を出て右に左に視界を巡らせたけどそこに人影は見えなかった。

「気の、せい?」

コツコツ

突如聞こえた靴音にビクンと体震える。

「女王様っ!?」

「ん?その声、葛木か?」

「一ノ瀬…くん?」

暗がりから姿を現したのはクラスメートの市ノ瀬くんだった。

「こんな時間になにやってんだ?帰り道違うだろ?」

「えっ?あ、うん…猫缶を買って行こうと」

「猫缶?そんなもん何処に持ってるんだ?」

「あれ?」

彼の言葉にふと記憶が戻る。

私は路地裏に戻って鞄と猫缶を持って戻ってきた。

「あ、ははは。忘れてきちゃった」

「ったく路地裏なんかで何してたんだよ?」

呆れ顔で彼が笑う。

「返す言葉がないけど…」

「はぁ、途中まで送るから」

「あ、うん。ありがとう」

その日、私は一ノ瀬くんに送られながら家に着いて眠るまでチェシャ猫や女王の姿は見当たらなかった。


ふと振り返ればいつものにんまり顔がある。

その表情は崩される事はない。

「あ、チェシャ猫」

そして音もなく遠ざかっていく。

「待って!チェシャ猫!お願い!」

必死に足を動かしてもそのニンマリ顔に触れることは出来ない。

カラン

と鈴の音が一つ

「待って!お願いだから!傍にいて!私、あなたに…あなたと!チェシャ猫ーーっ!」

ニー ニー

「っ!?はぁはぁはぁっ!」

目が覚めると見慣れた風景が飛び込んできた。

辺りを見回すと猫の”チェシャ猫”が私の顔を覗き込む様にまん丸の眼を開いてこっちを見ている。

「また…」

この夢を見るのはもう何度目だろう?

あの日からほぼ毎日見ている様な気がする。

あの時、女王とチェシャ猫に似た声を聞いてから…

ニー ニー

私はすぐ傍にいたチェシャ猫を抱き寄せた。

「おはよう、チェシャ猫。すぐにミルクあげるからね」

ニーニーと鳴いていたチェシャ猫はいやいやをして私の腕から逃れようとする。

「ごめんごめん。汗臭かったね」

私はチェシャ猫を開放してあげてパジャマをそっと撫でた。

「うぅ…また汗びっしょりだ…」

チェシャ猫にミルクをあげて私はシャワーを浴びて余所行きに着替えた。

今日は休日で特に出かける用事はないけど日がな汗まみれのパジャマを着ているのは流石に自分が女の子としてどうかと思う。

お昼の穏やかな陽射しと涼しい風が今を吹き抜ける。

陽射しに照らされたテーブルが程よく暖かい。

ふわふわと眠気を誘う陽気だ。

今日の夕飯の材料のメモ書きの置かれたテーブルの上ではチェシャ猫が私の指を相手に格闘している。

ゆ〜っくり動かして不意に爪で音を立てたらビックリしてびよ〜んと飛び跳ねる様が可愛らしかった。

それを敵対行為と見なしたのかチェシャ猫は私の指をやっつけようと躍起になっていた。

「チェシャ猫…お前は可愛いわね」

噛んで 叩いて 逃げて 叩いて

「私はね、お前も好きだけど可愛くないチェシャ猫も好きよ」

喉を擦ってやるとゴロゴロと喉を鳴らして目を細めて

「お前も 首だけになっても 生きていられる?」

諦めて手に顎を置いて寝る体勢

「フフッ。そんなわけないわよね?」

眠る体勢に入ったチェシャ猫を目の前に引き寄せる

スンと鼻をならすと懐かしい猫の匂いがした。

チェシャ猫の匂い

あんな夢をいつも見る所為で感傷的になっているのかもしれない

ポタリとテーブルに雫が零れ落ちた

「チェシャ猫…何処にっ…居るの?うっ…チェシャ、ねこぉ…」


「あれ…私、寝ちゃったの?」

気付くと辺りは真っ暗だった。

「いっけない、叔父さんが帰ってきちゃう。夕飯当番だった!」

猫のチェシャ猫の姿は見当たらない。

「行ってこよう」

私は用意してあった買い物用の鞄とメモ書きを取って商店街へと急いだ。

手早く買い物を済ませ家路に着く。

「買い忘れは…無いわよね?急いで買い集めちゃったけど…」

メモに書かれた一覧をなぞりながら一つ一つ確認する。

今日の献立はカレーだ。

「ジャガイモ、よし。豚肉、よし。にんじん、たまねぎもある。大丈夫そうね」

一覧を確認して何気なしに裏面を見た時、奇妙な文字が書かれている事に気付いた。

「これ…って」

食材の一覧の裏には赤い文字でこう書かれていた。


ぼくのことは
    おわすれ


一瞬の内に暖かい物が下瞼に込み上げてくる。

「チェシャ猫…」

これだけの文面だったのに私はすぐに理解できた。

チェシャ猫が私に宛てたのだと言う事

「やっぱり…やっぱり居たんじゃない!」

私は瞳に溜まった涙を乱暴に拭って走り始めた。

息が上がるのも

汗が滲むのも

足が悲鳴を上げるのも

厭わずにただひたすらチェシャ猫の存在を追い続けた。

走りながら色々な考えがよぎる。

何故、私はこんなにチェシャ猫を追い続けるのか

懐かしいから?

何故、私はこんなにチェシャ猫に会いたいのか

忘れられないから?

何故、なぜ、ナゼ

意志とは反して足はすぐに限界を迎えてしまった。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁっ」

何よ

何よ何よ

何よ何よ何よっ!

こんな

こんな伝言まで残されて

「忘れる事なんて…出来るわけ…」

バカ猫

と罵りながらも涙が止まらない。

最近、自分が変わったと思う。

よく泣く様になった…

チェシャ猫の事を考え出してからずっとこうだ。

チェシャ猫の夢を見て、声が聴きたくなって、会いたくなって、泣いて…

「出来るわけないじゃない!」

私が叫んだ時

世界がグニャリと歪んだ

様な気がした…

辺りを見回しても特に変わった様子は無い。

いつも下校途中に通る公園の中だ。

気付いた途端

少し自分に呆れた。

そんな所まで区別がつかなくなってしまっているのか…

「重症…ね」

小さく溜息を吐く。

ズルリ

「ひっ!?」

ズルリ ズルリ

首筋を何かが這いずっている。

ぬめり気のあるこの感触…

チョウに似ているよ

チェシャ猫の言葉が脳裏を掠める。

「時間君…」

その感触は存在を確認されたのが嬉しいのか少しだけ速度を増してズルズルと這いずり回った。

おかえり、ぼくらのアリス!
おかえり!
ぼくらのアリス!

方々から懐かしい声が聞こえて来る。

さぁ、こっちに。ぼくらのアリス

声のする方に導かれるまま私は歩き出した。

そこには淡い薔薇色のドレスを纏った金色の巻き髪の女の子が立っていた。

「おかえりなさい!わたくしたちのア―」

彼女が腕を広げ言い終える前に私の腕は彼女を抱き締めていた。

「女王っ!」

「あ、あの…アリス?」

困惑めいた可愛らしい声が鼓膜をくすぐる。

「女王…会いたかったわ」

私がそっと囁くと彼女の声が震えてくるのが解った。

「アリス…今の言葉、嘘じゃ…」

「嘘じゃないわ」

「アリスッ!」

今度は女王が私を抱き締める。

「わたくし、こんなに嬉しい事は…じゃあ早速首を!」

デジャブ

女王はまた何処から取り出したのか大きな鎌を両手で掴んでいた。

「ちょっと待って!それはダメ!」

「なぜ?わたくしのものになってくれるのでしょ?」

女王の表情がほんの少し曇る。

「そう言う意味じゃないわ…会いたかったのは確かだけど…」

「じゃあ…やっぱり」

女王はそこまで言って下唇をきゅっと噛み締めた。

「やっぱり?ねぇ女王、チェシャ猫は何処?」

「やっぱり猫!?わたくしの方がアリスの事、想っているのに!」

「あ、ははは…ありがとう…。う、嬉しい…わ」

「だから猫は嫌いよ!手を貸すんじゃなかったわ…ブツブツ」

「女王…?チェシャ猫は…」

女王はブツブツ言いながらもちゃんと話しを聞いててくれたのかピッとしなやかに指をさした。

「ありがとう…。あと、女王に一つ聞きたいんだけど…」

「なにかしら?」

苛立ちを惜しみ隠す事もせず女王は応えた。

「皆、なんで急に…」

彼女はまた悔しそうに唇を噛み締めた。

「幾らアリスにでも答えたくありません!自分の胸に聞いてみるのがよろしいんじゃなくて!」

そこまで言うと女王はツンとそっぽを向いた。

「そ、そう…。ごめんね、行ってくるね」

女王が指差した方向にはバラ園の道が細長く続いていた。

恐る恐る歩いていくと白バラに襲われる事も無く中に入る事ができた。

そしてその真ん中には

いつものフードに隠れたにんまり顔が佇んでいた。

「来てしまったんだね」

懐かしい声…

「チェシャ猫!」

「おかえり、ぼくらのアリス」

私は小走りに駆け寄ってチェシャ猫に体を預けた。

「あぶないよ、アリス」

ほんの少しだけよろめいてチェシャ猫は私を受け止めてくれた。

「バカ!探したじゃない!」

嬉しさで声が上ずる。

鼻の奥がツンと痛んだ。

「…」

相変わらずフードの所為で表情は読めない。

「あなたにどれだけ会いたかったか…あなたに、あなたに…」

チェシャ猫は私の体をゆっくり離した。

「ここにいては、いけないよアリス。早くおかえり」

チェシャ猫の言葉が胸にズクリと突き刺さる。

「なんで…なんでそんな事言うの!あなたに会いに来たのに!」

「このままだとアリスはここの住人になってしまう。それはいけないよ。ぼくらはいつでもアリスのそばにいる」

「そんな事言って、あなたはいつも居なかったじゃない!」

「アリスは、何故今ここにいるかわかっているかい?」

チェシャ猫は表情を変えぬままそう私に問いかけた。

「それは私が、あなたに会いたかったから…あ」

その問いかけでさっき女王が怒ったのが少しだけ解った気がした。

私は

私はきっと

チェシャ猫の事が

好きになってしまっていたのかもしれない

歪みの国の扉を再び開いてしまう位…

「今のアリスは、また歪んでしまっているんだよ」

「…」

「だから、早くおかえり」

「…よ」

「アリス?」

「いやよ!」

しばしの沈黙が流れる。

「あなたが傍にいない世界なら…捨ててしまって構わない」

「…」

「私はあなたが必要なの!傍に居て欲しいの!…ねぇ、いつも見える場所に居てよ…白ウサギの様に私の傍で見守っててよ…」

私は食い下がる事しか出来なかった。

チェシャ猫は私の事を心配して言ってくれているのは解っている。

他の皆が歓迎してくれる中で、チェシャ猫だけは私を元の世界に追い返そうとしている。

きっと他の住人に猛反発をされるに違いない。

それでも彼は私を追い返そうとしてくれている。

そんな風に私を思ってくれる人に、私は傍に居て欲しい。

白ウサギがそう思うあまりに壊れてしまった様に

今の私はチェシャ猫を思うあまりに壊れてしまっているのかもしれない。

「あなたが…チェシャ猫のこと…私は、大好きだよ?」

涙が頬を幾つも伝っていく。

もう幾ら拭っても無駄な気がした。

私は生暖かくぼやける視界でにんまりとしたチェシャ猫の顔を見つめていた。

チェシャ猫が口をゆっくりと開く。

「ぼくも、アリスが好きだよ」

「っじゃあ!―」

「でもアリスの好きとぼくの好きはきっと違う」

ゾクリと冷たい感触が背中を通り抜ける。

「ぼくはいつかアリスを食べてしまうかもしれないよ?それでもいいのかい?」

やんわりと穏やかにいつもの口調でチェシャ猫は言った。

私は直ぐに応える事が出来なかった。

私だけのチェシャ猫…

その反対を突きつけられているだけなのに

どうして直ぐに答えてあげられないのだろう…。

恐怖と言う言葉が形になって脳裏をちらつく。

いつの間にか膝も震えだしていた。

チェシャ猫の口から覗く牙が冷たい光を放っている様に見える。

それでも

私は…

「いいよ…チェシャ猫の傍に居られるなら…私を食べても、いいよ…」

怖さに震える唇から私は吐息の様な微かな声でそう応えた。

心臓が破裂しそうに痛い。

気を抜いたら恐怖で気を失ってしまいそうだった。

それでも私はチェシャ猫から視線を放さなかった。

さらさらと風が薔薇の葉を揺らす。

「…」

返事は無い。

考えているのかもしれない。

フードの所為で顔は見えないけれど

「…チェシャ猫」

「わかったよ、アリス」

チェシャ猫はコクッと小さく頷いてそう応えた。

「え?」

「ぼくのアリス、きみがのぞむなら」

チェシャ猫の言葉は私の心をを恐怖と歓喜で埋め尽くした。

「でも、ここにいてはいけないよ」

私は耳を疑った。

てっきりチェシャ猫に食べられるんだと覚悟していたのに…

「え?」

聞き返してみたけどチェシャ猫は直ぐには応えなかった。

「じ、じゃあどうすれば―」

「ぼくがアリスの世界に行くよ」

「へ?」

「白ウサギの様に、ぼくがきみの世界へ」

「ちょっと、おまちなさい!」

不意に後ろから女王の声がした。

「さっきから聞いていれば猫!自分ばっかりずるいですわ!」

ぷりぷりと怒りながら女王が歩み寄ってくる。

「女王?」

「…」

チェシャ猫は呆気に取られている様に見えた。

「わたくしもいきます!」

「えぇ?」

「国はどうするんだい?」

「捨てますわ!ダメとは言わせませんわ!この前の貸しは無しにして差し上げますわ!」

「この前の貸し?」

「…」

しばらく考えていたのかチェシャ猫は少し経ってからコクッとした。

「アリス、これでずっと一緒ですわ!」

女王が不意に抱きついてくる。

「女王、アリスはすぐに連れて行くけど」

チェシャ猫が言うと女王は不満を露にしながら振り向いた。

「なんですの」

「一緒に行くなら鎌は置いておいき」

「く…わ、わかりました」

チェシャ猫の言葉に女王は大鎌を渋々バラの中に放り投げた。

「じゃあいくよ、アリス」

そう言ってチェシャ猫は私の足の下に頭を入れた。

「えっちょ、ば!急に、わぁっ!?」

私は必死にバランスを取ってチェシャ猫の頭にしがみついた。

「海を渡るからね」

「先に言ってから肩車しなさいよ!」

歩き出したチェシャ猫に向かって私は叫んだ。

「まったく、デリカシーの無い猫ですわ」

と横を歩く女王が笑みを零しながらそう言った。

海を渡る途中、私は何となく引っ掛かっていた違和感に触れることにした。

「チェシャ猫、あなた胴体と仲直りしたの?」

「1ヶ月かかったよ」

チェシャ猫はにべも無く答えた。

「くっつくものなの?」

私は少しだけチェシャ猫の首を引っ張ってみた。

「猫は頭と体が離れてもくっつくものだよ」

「そう言うもんなの?」

「そう言うもんだよ、アリス」

「そうか」

クスリと思わず笑みが零れた。

これがこの世界の”ジョーシキ”なんだ。

懐かしいやり取りを思い出す。

「ふふっ」

「アリスが嬉しそうで、わたくしも嬉しい♪」

女王が隣で微笑んだ。

「楽しくなりそうだなと思って…これからふたりともずっと私と一緒にいてね」

私が言うと二人はチラリと顔を見合わせて口を開いた。

「ぼくのアリス、きみが望むなら」
「わたくしのアリス、あなたが望むなら」


それから元の世界に戻った私たちはそれぞれの世界の違いを話し合った。

女王がチェシャ猫が変な行動を起こしてしまわないように…。

チェシャ猫は普段は猫の姿で飼い猫の方のチェシャ猫と遊んでくれている。

女王は私の通う学校に転入して私の友達として傍に居てくれてる。

私はそんな二人に囲まれながら日々を過ごしている。

いつも二人が私の傍に居てくれますように。

他の誰が居なくても彼らが消えてしまいませんように。










夢の様なこの世界が、永遠に続きますように。

ED2「歪んだ現実」

 SS寄り あとがき